法光寺城

別名-  付近住所 篠山市西八上 現在-
2008/7/21 案内板アリ


 戦国時代に多紀郡(現篠山市)を支配した戦国領主波多野氏は、応仁の乱(1467〜1477)の戦功によって、室町幕府管領細川政元から多紀郡(現篠山市)を与えられ、八上に本拠を構える。波多野氏は、まず殿町に奥谷城(蕪丸)を築き、その後本城である八上城を築く。
 法光寺城は、八上城西麓の殿町に存在した城下町を守るために築かれた支えの城である。法光寺城の築城によって、城下町はその西に強固な防衛線を有することになる。
 法光寺城築城の時期は、天文年間(1532〜1554)頃と見られる。永禄2(1559)年、波多野氏が、摂津芥川城主三好長慶の軍に八上城を攻められた際、法光寺城が敵将内藤宗勝の手に、一時わたったという記録がある。
 法光寺城は、東西南北の尾根に曲輪と呼ばれる防御陣地が六箇所にわたって展開し、一部には土塁や堀切も見られる。
 この強固な防衛線が崩され、波多野氏の滅亡につながるのが、織田信長による八上城攻めである。八上城は、天正6(1578)年から、信長が派遣した明智光秀、丹羽長秀、滝川一益の軍に攻撃され、厳しい籠城戦を強いられる。
 光秀は、八上城の周囲を堀と柵で囲い、獣が這い出る透き間もないほどに徹底包囲する。籠城者は、初めは草木の葉を食べ、次に牛馬を食べ尽くし、城から出てきた者はことごとく切り捨てられたと記録されている。最後は、城内で裏切りがあり、波多野秀治ら三兄弟が捕らえられ、八上城は落城する。